タテシナソンのリアル ガイド編 ③谷脇さん

インタビュアー くりもと きょうこ

総合出版社で編集者として14年間、青年誌・女性誌・男性週刊誌・児童書と脈絡のないキャリアを経たのち、信州に移住して雑食系フリーランス編集者・ライターに。こんなに楽しいならさっさと会社員を辞めればよかったと思う移住5年目。東信エリアの某村に暮らす。


さまざまな立場の「人」を通して、「タテシナソンとは一体どんなイベントなのか?」を明らかにするインタビュー記事の第2弾は、参加学生を迎えてから送り出すまでの28時間、立科町の右も左も分からない学生たちをアテンドする「ガイド」を務めた町民の方々にお話を聞きました。

1回目は40代・二児の父で宿泊施設を経営されている國澤慎治さん、2回目は30代半ばのりんご農家・関陽一さん、そして3回目の今回は、70代のガイド兼レクリエーション講師・谷脇良一さんにお話を伺いました。


CASE3.谷脇良一さん

谷脇さんも関さん同様、第3回タテシナソンで初めてガイドを務めました。担当した「うしチーム」の学生たちから「wacky(わっきー)」と呼ばれていた谷脇さんの目に、学生たちの姿はどのように映ったのでしょう。

レクリエーション講師、ガイド 谷脇良一さん

谷脇さんは大阪でサラリーマンとして勤めていました。早めのリタイアを決め、1994年に立科町に移住。四半世紀以上、立科町で暮らしてきました。現在は、介護予防をテーマとしたレクリエーション講師や高原エリアのガイドとして活動をされています。


くりもと:谷脇さんはどんなきっかけでガイドを務めることになったのでしょうか。

谷脇:タテシナソンの立役者のひとりである、町役場の上前さんから声をかけられたのがきっかけです。アイデアソンの立科版で、珍しい先進的な取り組みだと感じていました。

タテシナソンのことは1回目から話は聞いていて、特に第1回の課題提供事業者は「牛乳専科もうもう」さんで、私が住む「高原エリア」*2の事業者だったので、周囲で話題になっていたんですよ。

 第3回目の課題提供事業者は「マーガレットリフレクパーク」で、シーズンのピークとオフがはっきりしています。とてもタテシナソン向きだと感じていました。

*2高原エリア……立科町は南北に細長い地理の特性上、蓼科山を擁す高原地帯の「高原エリア」と、そこから北側に下った「里エリア」に分かれている

くりもと:学生たちとはどのように打ち解けましたか?

谷脇:学生たちは、私からみて2世代ほど下で、ちょうど孫と子の中間くらいでしょうか。大きな孫でもおかしくない間柄です。世代間ギャップは大きいですが、ふだん交流のない世代だからこそ、私はむしろチャンスを与えられたと感じました。

 私はふだん高原エリアのガイドとしても仕事をしていて、そこで一番大事にしているのは「来てくれた方に、この町のファンになってほしい」ということです。それはタテシナソンのガイドでも同じで、学生たちに立科町のファンになって帰ってもらえたらと思っていました。

くりもと:実際に接してみて、学生たちの印象はどうでしたか?

谷脇:チーム内で自然と役割ができて、楽しくやろうという流れができていました。最初に白樺高原の「女神のそらテラス」に行った時はまだ雰囲気が硬くて、そこでEくんが「(雰囲気が)硬いよね」と言ってレクをはじめたんですよ。手を叩きながらリズミカルに次の人に話を振っていくというもので、みんなが自然と話す仕掛けになっているんですね。それでみんな一気に打ち解けていました。私もレクをやるので、「やるなぁ」と思って見ていましたよ。

でもね、実はとても心配されていたチームでもあったんですよ。

くりもと:どんなふうに心配されていたんですか?

谷脇:1日目は、ず―――っと遊んでいたんです。課題提供事業者がレクリエーション施設だったということも大きかったと思います。そこの課題を見つけて提案を考えるわけですから、まず現地を見て体験する必要があります。はたから見たらただ遊んでいるだけになってしまうのは仕方ないですね(笑)。

くりもと:とはいえ、タテシナソンはスケジュールがかなりタイトですから、心配になりますね。

谷脇:私も「大丈夫かな?」と内心思いつつ、それでもこの人たちのやり方を見ていようと思って、そばにいました。聞かれたことには答えますが、自分から何か言うのはなるべく控えて、聞き役に徹して。上前さんからも「大丈夫ですか?」と心配されるほどだったんですが、学生たちはとにかく楽しそうにしていました。

1日目の終わり、18時頃になってようやく話がはじまりました。EくんとFくんが音頭を取りながら、タブレットでプレゼン資料をつくりながら一気に進めていくようすを、驚きながら見ていました。それぞれすごいスキルを持っていたのが印象的でしたね。

だから、孫のような世代とはいえ、“大人とこども”という感じはありませんでした。教わることも多かったです。たとえば、LINEは電話番号で繋がる方法しか知りませんでしたが、QRコードを使った読取方法をサッと教えてくれたりして。さすがだなぁと。


くりもと:印象に残っていることはありますか?

谷脇:1日目の夜に、「蓼科園地」にうしチームのみんなを連れて行きました。満点の星空を見せたかったんです。とても感激してくれて、広場に寝転がって星空を見ていました。この日だけ晴れていて前後は曇りだったので、ラッキーでした。

あとはなんと言っても、チームがメンター賞を受賞したことですね。この賞はプレゼンが一番優れているチームに贈られるんですが、うしチームはテレビ番組のようなユニークなプレゼンをやったんですよ。これはうれしかったですねぇ。

くりもと:今後のタテシナソンへの期待や要望があれば、教えてください。

谷脇:採用されたアイデア、事業者のその後の取り組みと現状など、開催から数年経ってからでいいので、公開してほしいですね。関わってくれた学生のためでもありますが、やはり町民の中で“レガシー(遺産)”として共有したいので。

また、タテシナソンの取り組みは、立科町のファンを増やすという意味で、種を植えるようなものだと思います。関わってくれた学生がやがて家族と一緒に町に来てくれたり、移住してくれたり、はたまた何かしら関わってくれるかもしれません。そういう関係は、何もないところからは生まれませんよね。タテシナソンという印象深い2日間があるからこそ、長い目で見た時にまた違ったかたちでいい関係が築けるかもしれないと思います。

大勢の学生が参加してくれたというのは、すごいことだと思います。強いネームバリューがあるわけではない立科町に、前向きな意欲をもって集まってくれたのですから。事業者もまた学生たちを真剣に受け止めていて、「学生だから大したことはない」という空気は一切感じませんでした。お互いの“本気”が呼応しあって斬新なアイデアが生まれ、それこそがタテシナソンの成果だと思っています。


くりもと:チームメンバーへのメッセージをお願いします。

谷脇:立科町が新しい取り組みができるように関わってくれて、ありがとうございます。社会人になってからも、ぜひ家族と遊びに来てください。そして、自分たちが提案したアイデアがどう反映されたか、町がどう変わったかを見てほしいです。私たちもがんばります!


学生たちを信じて待つことができたのは、さまざまな場面を経験してきた人生の大先輩であり、レクリエーション講師やガイドとしてふだんから多様な人と接している谷脇さんだからこそ、と感じました。

学生と行動を共にするガイドというと、お兄さん・お姉さん世代がふさわしいのではないかという考え方もあるでしょう。が、世代は関係なく、その人なりのやり方で楽しく関係を築いていけるのが、タテシナソンのガイドの醍醐味かもしれません。


相手が学生と思うとつい口も手も出したくなってしまいそうですが、お三方とも実にいい距離感で見守り続けたことにまず驚きました。

社会人と学生、年上と年下、先輩と後輩といった分かりやすい上下関係のテンプレートに頼らず、同じひとりの人間として関わり合い、学び合う――そんな、ちょっと先の “未来”をも感じさせてくれるエピソードばかりでした。

学生にとっても、一番身近な立科町民であるガイドとの交流は、タテシナソンを走り切るために欠かせない存在だったのではないかと想像します。

タテシナソンの“核”となる「課題提供事業者」。
ひとりの大人として学生たちに寄り添う「ガイド」。

それぞれ立場は違えど、立科町民という共通点があります。町民である大人たちが、タテシナソンという場、そして縁あって来町した学生たちから実にさまざまなことを吸収していることが、インタビューを通してよく分かりました。

見方によっては、どこにでもある地方の町の町おこしイベントと言ってしまうこともできるでしょう。が、そのどこにでもある町において、これだけの“化学反応”が起き続けていることは、やはり驚嘆に値すると思うのです。

タテシナソンは、関わった人すべてに刺激と気づきをもたらす――。この町の未来にも、この国の未来にも、希望を持ってもいいかもしれない、と感じさせるだけのポテンシャルを秘めているのではないかと感じました。

文:くりもと きょうこ

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